趣味のパイプで想うこと。

パイプ煙草を密かに楽しみ、想いを書きしたためます。読んでください。

体育座りについて思う事。

 

この前ラジオで体育座りはやめた方が良いという話をしてた。

体育座りについて前に伺った踊りの先生は、奴隷座りだと憤っていた話も聞く。

うむ。

体育館で集まって話を聞く時のあの三角座り。

ラジオでは優しくなったと言っていたが、それは的が違うと思う。

この問題の筋自体が違う。

 

私の意見を言いたい。

 

まず私が体育館で、体育座りをした大勢の生徒及び児童の前で話をする機会があれば、自由に楽に座れば良いと言いいこう始める。

 

そもそも体育座りは、無数にあるアーサナの一つ。正しく座る事ができればそこそこ快適であるが、ポーズは変えて良い。坐法など学ぶ事ない生徒及び児童はキツい姿勢になりかねない。

あぐらは失礼なのか。そんな事ない。立派なアーサナである。寝っ転がって聞いてもいいと思う。

その体勢が失礼だと感じる学校側そもそも無知と権威的傲慢であり、さらに勘繰って心の心底を覗きみれば反抗に対する事前駆除。それに

恐怖すら見え隠れし、カンの良い皆様に無様に写りかねない。

なぜ立ち上がって歩いてはならないのか。よくよく考えてみれば謎である。

 

学校卒業後、私は学びに各地へ足を運び、先生方の話を聞いたものだが、姿勢を咎める人はいなかったし、みんなバラバラに座り、立つものもいたし、トイレに退席するもの自由であった。

大人の学びの世界は、自由であった。

しかし体育座りとは懐かしい。この感じはまだ続いていたのだろうか。

 

体育座りあの三角座りは坐法の一つであって、あなたがその姿勢ではキツく苦しいのであれば、座り方を変えるべきであり、あなたの体の癖を修正すべきなのである。アーサナは快適であるべきなのだ。学生諸君。背中が曲がったり、腰に痛みが伴うことを今身をもって知るなら、あなたはヨーガの第一歩を踏み始めたのだ。快適にこの時間を過ごせなければ、苦しいだけである。私は苦行を強いるため、我慢大会のために、壇上に立ち長話をしにきたのではない。まして、権威を振りかざし、集団的強制教育力を見せつける優越感に浸りに来たわけでは決してなく、この時間は正座や結跏趺坐を強いる、寺の坊主の修行でもない筈だ。

時間を愉しみ柔軟である事があらゆる学びの秘訣である。おk?じゃあ、話をします。

と言う。