趣味のパイプで想うこと。

パイプ煙草を密かに楽しみ、想いを書きしたためます。読んでください。

野良猫の虐待を無くすにはについてのシンプルな回答。

バイトがないこの時期。金銭的には窮地だがいつもの事。明日は面接であるし、昨日は食べては寝て、喉が渇いては飲み物を飲んで寝て過ごした。春の心地よさと眠るという至福に包まれてしまったのだ。久しぶりに長い時間眠った気がする。猫も傍ら。モフモフとしつつ気怠い眠気の思うままにしておいた。前日まで続いた頭痛もなく、予想に反して、低気圧の雨降りの1日は静かであって落ち着き安らげたのだった。翌日はカラダがカチカチになる程寝ていたようで、動かすのが億劫な程。腱鞘炎の痛みも今頃になって意識に上らないほどなくなっている。ハードワークに一区切り。回復には睡眠が不可欠という意味を再び学んだ気がする。しかし、今日になってすでにカラダがなまりはじめ、動かない状態が不愉快に感じ始めた。椅子に座って作業する事になれず、じっとしてられず、集中力も持たない。やはりカラダ動かしてこそのカラダと言い聞かし、先ほどの夕方、花見として川の流れるあたりへバイクを走らせたのだ。人気のない音のあるところは落ち着く。瞑想も心地いい。常に汚れた手はすでに綺麗になりはじめ、ストレスは解消されていく。復讐だけを楽しみにして今を我慢しているようなものだが、この半殺しへの飽きる事ない想像も消えてしまって欲しいと願う。木製のバットを振り下ろし殴りつける快楽、血塗れのバットエンドを忍びの糧に生きる俺だが川の流れに憎しみと殴りつけすぎて折れたバットもろとも捨て去り消せればと今は願うのだが、明日はどうかな。貫徹する象のための復讐。善悪裁判。それも善人ズラの鉄槌かってよ。お前ら覚悟しとけよ。

 

野良猫の虐待を無くすには。昔どこかに書いた問い。このウイルス大流行に改めて問い直してみた。

俺のように話をする相手もいない孤独な人間にとって、動物は唯一の話し相手だ。彼らには共通して悪意がない。多くは本能的に動き日々を暮らしている害のない生き物に想う。物を所有せず、金銭を得る仕事をせず、雨風凌ぎ、まあ色々あるにせよ、食べることに専念し、眠り、鳥は朝日が出たら動き出し、夕方日暮れに帰るのだ。嫌われ物のカラスや野良猫、それに増えすぎたリス等。それは我々人間にとってだけであって、悪意があり理不尽際なりないのはこちら側なのだ。動物虐待が起きる理由は人間の小さき悪である。その小ささのあまり動物を邪険し、害獣視し、排除し、敵視してきた結果の末路。その教育の結果だ。傷つける者はそんな大人に傷つけられ、結果もっとも弱い悪である害獣を痛めつける。憂さ晴らしに。理由のわからない苛立ちに、その惨めな小さな悪を善とすり替えて、切りつけるのだ。その善悪のジレンマが我々人間をより、型にはめ、身動きのできぬような不自由な世界へ縛り付けている。故に、野良猫の虐待というような猟奇的な衝動が生まれ、斬り刻まれた死体が転がるのだ。その不自由で善悪のジレンマという重い負荷をいつもどこかで誰かや何かが背負い込んでいる。

現在進行中のコロナウイルス大流行も虐待に似てる。我々人間の無慈悲のつけだと俺は想っているのだ。ここからは聖書を引用するが、無信仰者でさえきっと思考するきっかけになるから乗せておく。

 

創世記1-28 神​は​2​人​を​祝福​し,こう​言っ​た。「子​を​生み,増え​て,地上​全体​に​広がり,地球​を​管理​し​なさい。また,海​の​魚,空​を​飛ぶ​生き物,地上​を​動く​あらゆる​生き物​を​治め​なさい」。

 

神は最初の人間アダムとエバの誕生を祝福し、そして命令している聖句だ。

現在我々はこの命令を無視し、完全に失敗している。海を汚し、大気を汚し、地上の動物をほぼ無視し、邪険し挙句害獣視している。未だ国同士の争いばかりで地球を管理できていない。

人間は人間以外のものに強烈な負荷をかけすぎたため、背負い上げていたものがついには猟奇的に弾けたのだ。瞬く間に地球全体に広がり、無差別に人間だけを悪意なく淘汰する。ウイルスは生きものでも生きものでもないほど小さく爆発的に増え続けていく。それはもうあるかないかわからないほどあやふやな幻なのに、確かに存在としてある。大気。つまり、すべての人間の中に入り込むまで続いていくのだよ。マスクで凌げるかってよ。部屋に閉じこもっていられません。生きることは動くこと。人間や動物は活動してるんだよ。一年活動自粛しても無理。必ずすべての人間の中に入り込むまで終わらない。発症するかは別として。いつもと違う特別な風邪。

 

野良猫を手懐けて良かった事。こんな孤独な俺にも、話し相手がいて、待っててくれたり、帰ってきたりしてくれる。悪意がなくてとことん優しい。眠り猫はいるだけで良いよ。長閑でバイブレーションがいい。外に出れば、まったく違う世界に生きていて、3次元で目線は低くて時に高いところにいたりして、彼には彼の仲間か友達、きっと恋猫もいてだな、オス猫であるムーは、この辺を彼なりに見回り、頼もしくも彼なりに守っているのだ。だから虐待など無価値なことはやめて、むしろ手懐けて従わせ、可愛がるに限るよ。優しいということは心地が良く温かいことだよ。

つまり俺も復讐などに固執せず、想像の産物、汚物。血塗れの折れた木製バットなど、現実化する前に川に放り投げてとっと捨て去り消せってこと。春の川に流してポイ。サヨナラだ。

神の祝福と命令に預かるなら、我々は動物や海、大気から学び、優しさを取り戻す事だ。人間のその賢さ故、無視し蔑ろにしてきたものに我々は実は背負っていてもらっていた。それはどこか知らない小さな動物だったかもしれない。猟奇的なの無自覚な我々だ。害獣は人間だったのに、悪のない優しい動植物が背負ってくれていたのだ。それも限界がきた結果。動物虐待なんてお門違いもハナハナしい話。善悪不自由のジレンマを改めるのだよ。個人的に。それは必ず君の中に入り込む選択肢。君が一人で決めるんだ。その決定は周り、子にも影響する。もうすでに、そして必ずカラダに入り込む。

(優しくあれ。)

さすれば、きっとこのウイルスパンディミックを悠々と乗り越えて、

未来。楽園を取り戻す事ができる。と想う。